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2024年10月13日
「学ぶ」ということ
ひっさしぶりの更新。
いやはや最近になって、「学ぶ」とは何ぞ
という事に改めてぶちあたっております。
なので、今月はそんな個人的興味もあり、いろんな視点で学ぶということにアプローチする形で、合気道子どものクラスのお知らせを書いております。
その中のひとつにさが、私の好きな、養老孟司先生の著書から、
「変わっていくこと。それが、学ぶこと、知るということです。自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい」
と、しばしば手厳しいような、核心をつくような言葉。
例え話として、子どもたちにもわかるよう、こんな風に書いてみました。
ーーーーー
例えば、「私はいつも授業で注意されてしまう」という人がいたとします。それを「先生は私のことが嫌いなんだ」と思うかもしれません。
でも、それはひょっとすると「私」が変わっていないから、何度も注意されるのかもしれません。
話を聞いていない時に注意されているなら、先生が話している時は聞くようにする。
友達とおしゃべりをしているなら、それをやめる。
変化は自分で起こしていくことが「学び」には大切だと感じています。(←ここは私見です)
ーーーーー
この例え話でいえば、事実は1つです。
ざっとまとめれば、「先生が生徒を注意した」という事。しかし、真実は各々で分かれます。
先生の真実は、「授業の妨げになる」あるいは「人の話を聞く姿勢を学んでもらわなければいけない」から注意をしたという事。
生徒の真実は「いつも先生に注意され、先生は私を嫌いなんだ」という事。
こういうのが、非常にややこしい。
なぜなら、どちらも間違いでは無く、どちらが正解ということも言えないからです。
ではどうするか。
お互いが、お互いの立場に立ち
「やり方」「考え方」を再構築するという形を取るしか方法はないだろうと、私は思います。
繰り返しますが、その人が良い悪いでは無いんです。変えられるのは「やり方」や「考え方」です。
ここが変えられるとそれは大きな学びになり得るのだろうと、そんな風に私は考えています。
子どもに配っている冊子では、何かに困ったり、つまづいた時には、一度立ち止まっても良いから、自分が変わる意識を持って欲しいという願いをこめた、子どもたちへのメッセージですから、先のような書き方になっています。
さて、もうひとつ。
養老先生は、人はハッとした時に変わるとも書いています。
私がハッとして変わったこと。
それはキャンプの指導の場でおきました。
大学2年生から毎年、大学生リーダー1名に小中学生の班員が8名ほどで1週間程度のキャンプに参加していました。
複数の班が同じようにキャンプ場で生活していくのですが、3日目くらいから面白いほど違いが出てくる。
ある班はリーダーが何か言うまで動かない
ある班はリーダー不在で生活に必要なことを手分けして率先して行える
当然私は前者。てんやわんや。すっかり疲れていたと思います。しかし、ある夜にハッとするのです。
キャンプ中に見た夢でのこと。
夢でも私は一生懸命子どもに指示をしていました。
「お米もらってきて」「薪を持ってきて」「野菜を切って」1から10までずっと支持出しオバケ状態。
これだ!!
ほんとにそう思って目が覚めました。
この夢を見た時のキャンプはひどいものでしたが、その次からリーダーとしての関わり方をガラッと変えました。必要最低限は教え、見せ、一緒にやる。でも基本は手を出さないで見守る。聞かれたら「どうするのが良いと思う?」と一度聞く。そして一緒にやる。
はじめはもちろんうまくいかない事も多かったですが、徐々に加減を覚え、「うちの班のリーダーは何にもしてくれない」と言われつつも、子ども自身が学び、ほっておいてもキャンプの生活をできる班ができるようになっていきました。
私はこの時に、私の理想や、私にとって都合のいい動きをしてもらおうと何でもかんでも「指示」し、子どもが考え、変わる機会、つまりは学びを奪っていたことに大いに反省しました。
(この話の主旨と少しずれますが、この時同時に、「子どもにとって大切な経験をしてもらう」という当初の思いから「時間内に終わらせる」や「うまくやらせてあげよう」という風に、考え方の軸がズレまくっていた事にも大反省でした)
効率が悪かろうが、絶対にうまくいかない事がわかっていようが、子どもたちの学びは、自分たちで考えた事を行うことから生まれるのだなと感じます。
大人は我慢と忍耐ですね。
つい言いたくなっちゃいますが。
ついつい「大人」を振りかざしちゃいます。
そして、昨今の効率化やタイムパフォーマンスなんて事には縁遠いような考えかもしれせん。笑
さて、そろそろ考えがごちゃついてきました。笑
最後にこれだけ。
こういう事をかくと、
変わらないのはいけない事ですか?
変わることは必要なんですか?
と聞かれることがあります。
いえいえ。ほっといても、自分も周囲もとどまることなく変わるんです。いつもと同じと感じると安心するのはわかりますが、変わります。
私は変わったつもりがなくても、周りは変わって見えることがあるでしょう。相手が変わったと思っていても、変わったのは私かもしれませんよね。
じゃあ、正解はどこにあるのか?
さぁ?さっぱりわかりません。
学びが、考え、変わる事であるなら、
「答えのないものを大切にし、考え、変わり続けることが大切なんだと思いますよ。あ、要するに、日々学びで飽きませんね」
くらいしか、私には思いつかないわけです。
いやはや最近になって、「学ぶ」とは何ぞ
という事に改めてぶちあたっております。
なので、今月はそんな個人的興味もあり、いろんな視点で学ぶということにアプローチする形で、合気道子どものクラスのお知らせを書いております。
その中のひとつにさが、私の好きな、養老孟司先生の著書から、
「変わっていくこと。それが、学ぶこと、知るということです。自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい」
と、しばしば手厳しいような、核心をつくような言葉。
例え話として、子どもたちにもわかるよう、こんな風に書いてみました。
ーーーーー
例えば、「私はいつも授業で注意されてしまう」という人がいたとします。それを「先生は私のことが嫌いなんだ」と思うかもしれません。
でも、それはひょっとすると「私」が変わっていないから、何度も注意されるのかもしれません。
話を聞いていない時に注意されているなら、先生が話している時は聞くようにする。
友達とおしゃべりをしているなら、それをやめる。
変化は自分で起こしていくことが「学び」には大切だと感じています。(←ここは私見です)
ーーーーー
この例え話でいえば、事実は1つです。
ざっとまとめれば、「先生が生徒を注意した」という事。しかし、真実は各々で分かれます。
先生の真実は、「授業の妨げになる」あるいは「人の話を聞く姿勢を学んでもらわなければいけない」から注意をしたという事。
生徒の真実は「いつも先生に注意され、先生は私を嫌いなんだ」という事。
こういうのが、非常にややこしい。
なぜなら、どちらも間違いでは無く、どちらが正解ということも言えないからです。
ではどうするか。
お互いが、お互いの立場に立ち
「やり方」「考え方」を再構築するという形を取るしか方法はないだろうと、私は思います。
繰り返しますが、その人が良い悪いでは無いんです。変えられるのは「やり方」や「考え方」です。
ここが変えられるとそれは大きな学びになり得るのだろうと、そんな風に私は考えています。
子どもに配っている冊子では、何かに困ったり、つまづいた時には、一度立ち止まっても良いから、自分が変わる意識を持って欲しいという願いをこめた、子どもたちへのメッセージですから、先のような書き方になっています。
さて、もうひとつ。
養老先生は、人はハッとした時に変わるとも書いています。
私がハッとして変わったこと。
それはキャンプの指導の場でおきました。
大学2年生から毎年、大学生リーダー1名に小中学生の班員が8名ほどで1週間程度のキャンプに参加していました。
複数の班が同じようにキャンプ場で生活していくのですが、3日目くらいから面白いほど違いが出てくる。
ある班はリーダーが何か言うまで動かない
ある班はリーダー不在で生活に必要なことを手分けして率先して行える
当然私は前者。てんやわんや。すっかり疲れていたと思います。しかし、ある夜にハッとするのです。
キャンプ中に見た夢でのこと。
夢でも私は一生懸命子どもに指示をしていました。
「お米もらってきて」「薪を持ってきて」「野菜を切って」1から10までずっと支持出しオバケ状態。
これだ!!
ほんとにそう思って目が覚めました。
この夢を見た時のキャンプはひどいものでしたが、その次からリーダーとしての関わり方をガラッと変えました。必要最低限は教え、見せ、一緒にやる。でも基本は手を出さないで見守る。聞かれたら「どうするのが良いと思う?」と一度聞く。そして一緒にやる。
はじめはもちろんうまくいかない事も多かったですが、徐々に加減を覚え、「うちの班のリーダーは何にもしてくれない」と言われつつも、子ども自身が学び、ほっておいてもキャンプの生活をできる班ができるようになっていきました。
私はこの時に、私の理想や、私にとって都合のいい動きをしてもらおうと何でもかんでも「指示」し、子どもが考え、変わる機会、つまりは学びを奪っていたことに大いに反省しました。
(この話の主旨と少しずれますが、この時同時に、「子どもにとって大切な経験をしてもらう」という当初の思いから「時間内に終わらせる」や「うまくやらせてあげよう」という風に、考え方の軸がズレまくっていた事にも大反省でした)
効率が悪かろうが、絶対にうまくいかない事がわかっていようが、子どもたちの学びは、自分たちで考えた事を行うことから生まれるのだなと感じます。
大人は我慢と忍耐ですね。
つい言いたくなっちゃいますが。
ついつい「大人」を振りかざしちゃいます。
そして、昨今の効率化やタイムパフォーマンスなんて事には縁遠いような考えかもしれせん。笑
さて、そろそろ考えがごちゃついてきました。笑
最後にこれだけ。
こういう事をかくと、
変わらないのはいけない事ですか?
変わることは必要なんですか?
と聞かれることがあります。
いえいえ。ほっといても、自分も周囲もとどまることなく変わるんです。いつもと同じと感じると安心するのはわかりますが、変わります。
私は変わったつもりがなくても、周りは変わって見えることがあるでしょう。相手が変わったと思っていても、変わったのは私かもしれませんよね。
じゃあ、正解はどこにあるのか?
さぁ?さっぱりわかりません。
学びが、考え、変わる事であるなら、
「答えのないものを大切にし、考え、変わり続けることが大切なんだと思いますよ。あ、要するに、日々学びで飽きませんね」
くらいしか、私には思いつかないわけです。
Posted by 合気道 凛心館道場(心身統一合氣道会)
at 01:42
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