CATEGORY:合氣道教室 つぶやき
2019年09月07日
争わないことを教えて、何故技を磨くのか
当会の合氣道では争わないことを教えます。
それでいて、なぜ技を稽古するのか。
世の中は相対的なもので溢れ、比べ合います。
個々がそれぞれの良さを主張し、お互いがお互いを認め合うというだけであれば良いのですが、どうやら、そう簡単にはいきません。
自分や自分の周りに向け、好ましくない影響を与え兼ねない出来事、人に出会った時に、「どうしよう…」「これは困った…」では、意味が無いのです。
争わないことを知り、伝えるには、争いとは何かを肌で感じなければいけません。
ただし、日常でわざわざ争いを起こせというのでは無く、合氣道という武道を通して私たちは学ぶのです。
相手にひと泡ふかせようというような考えは、稽古の意図からすると、スタート位置がズレて別の道に立っている感覚です。
それでも形は覚えなければいけません。
ある程度形になるまではそう言った考えが片隅にあっても、まぁしょうがないかなという氣もします。
しかしながら、時期を見てそこは修正しなければいけませんね。これは指導する側の使命かと思っています。
さて、話を戻して、
技は本来、お互いが氣を向け、真っ直ぐ向かった結果としてぶつかってしまう時に、投げる側は如何に導くか。
また、受身側は如何に「投げらる!」と構え、氣を引く事なく、技に乗っていけるか。
僕が現時点で思う望ましい稽古の形は、そう言ったものかなと。
そういった、氣をお互いにきちんと向け、お互いの氣を感じ取る稽古を通してこそ、争う心の様相が掴めると思うのです。
たとえ自分で争いの心はないと思っていたとしても、技はそう易々とできません。
外部からの刺激に対しては特にですが、無意識の内に「争ってしまう反応」が人間には備わっていると思うのです。(防衛本能ともいるかもしれませんが)
これがなんなのか。
技を通して考え、動き、突き詰めていくと、日常の争いすら起こさなくなるのだと思います。
そして、稽古を積んだ結果、実際に日常で何かしらの障壁にぶつかった時、
起こる心は、相手を打ち負かし屈服させようというのでは無く、
先ず問題を受け入れ、一度同じ立場に立った上で、より良い方向へ導こう(あるいは自分が進む方向を改めよう)ということであれば良いと、そう思う次第です。
正に万有愛護の心、天地自然の法則に氣づき、それを自ら修めることが修行の眼目である所以です。
一見矛盾するような「争わない」ことと「合氣道の技」。
こういった考え方で捉えていくと、益々楽しいなぁと、僕は思います。

それでいて、なぜ技を稽古するのか。
世の中は相対的なもので溢れ、比べ合います。
個々がそれぞれの良さを主張し、お互いがお互いを認め合うというだけであれば良いのですが、どうやら、そう簡単にはいきません。
自分や自分の周りに向け、好ましくない影響を与え兼ねない出来事、人に出会った時に、「どうしよう…」「これは困った…」では、意味が無いのです。
争わないことを知り、伝えるには、争いとは何かを肌で感じなければいけません。
ただし、日常でわざわざ争いを起こせというのでは無く、合氣道という武道を通して私たちは学ぶのです。
相手にひと泡ふかせようというような考えは、稽古の意図からすると、スタート位置がズレて別の道に立っている感覚です。
それでも形は覚えなければいけません。
ある程度形になるまではそう言った考えが片隅にあっても、まぁしょうがないかなという氣もします。
しかしながら、時期を見てそこは修正しなければいけませんね。これは指導する側の使命かと思っています。
さて、話を戻して、
技は本来、お互いが氣を向け、真っ直ぐ向かった結果としてぶつかってしまう時に、投げる側は如何に導くか。
また、受身側は如何に「投げらる!」と構え、氣を引く事なく、技に乗っていけるか。
僕が現時点で思う望ましい稽古の形は、そう言ったものかなと。
そういった、氣をお互いにきちんと向け、お互いの氣を感じ取る稽古を通してこそ、争う心の様相が掴めると思うのです。
たとえ自分で争いの心はないと思っていたとしても、技はそう易々とできません。
外部からの刺激に対しては特にですが、無意識の内に「争ってしまう反応」が人間には備わっていると思うのです。(防衛本能ともいるかもしれませんが)
これがなんなのか。
技を通して考え、動き、突き詰めていくと、日常の争いすら起こさなくなるのだと思います。
そして、稽古を積んだ結果、実際に日常で何かしらの障壁にぶつかった時、
起こる心は、相手を打ち負かし屈服させようというのでは無く、
先ず問題を受け入れ、一度同じ立場に立った上で、より良い方向へ導こう(あるいは自分が進む方向を改めよう)ということであれば良いと、そう思う次第です。
正に万有愛護の心、天地自然の法則に氣づき、それを自ら修めることが修行の眼目である所以です。
一見矛盾するような「争わない」ことと「合氣道の技」。
こういった考え方で捉えていくと、益々楽しいなぁと、僕は思います。

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