CATEGORY:合氣道教室 つぶやき
2020年11月23日
「知る」を考える
さて、私たちはものごとを、
「知っている」か「知らない」に分ける事ができます。
しかしながら、厳密には「知っている」にはグラデーションがあります。
言葉を知っている。
意味を知っている。
体験し、知っている。
日常的に知っている。
こうあげていくとキリがありませんが、おそらく、言われてみればその通りだと誰もが感じていただけるのではないでしょうか?
昨今のインターネットや電子機器の普及は、人々の「知っている」をより広範囲にしています。
しかしながら、一方では「知っている」レベルが大変浅くなる傾向もあるように感じます。
調べればそれが何なのか、わかる。
いえ、わかった氣になるのです。
知る、或いはわかるとはそんな容易いものではありません。
例えば、ひらがなの「あ」は共通認識として「あ」ですが、その一文字ができた過程や歴史を私は知りません。
こんな一文字についても深みを持っているのです。
私は合氣道に携わっていますので、その中での例えをあげさせていただきます。
当然、稽古の指導時は、私の「知っていること」を伝えています。
しかし、これもまた当然ながら、私の知っている深さと広さの中でしか伝えることは不可能です。
「知ったように話す」ことは、一生懸命ハリボテを建てることで、自分の指導者としての役割を果てしている氣分に浸っているだけです。自分にも相手にも何の役にも立たないと思っています。
なので、稽古の際、わからないことは言いませんし、お答え出来ない事もあります。
伝えたいにも関わらず、伝え方がわからないならば「自分がそれを知らないことを知る瞬間だ」と捉えています。
そういったものか浮上した際には、わかっていそうな人に聞くか、じっくりそれをテーマに稽古に取り組めばいいのだと思っています。
ひとつ、稽古で大変面白いのは、知っていたと思っていた事が、子どもの思わぬひと言などであっという間に中身のないハリボテだったことに氣づいたりすることですね。
そういう時は大抵、「すごいいい質問だね!それはわからないなぁ。また考えておくね。とってもいい問題をくれてありがとう」という感じで子どもににお礼を言うなんてことはよくある話です。
つまり私は、自分の生業としようとする合氣道であっても、知っていると思っていることはまだまだ知らなかったりするのです。
そう思うといくらやっても終わりがありませんね。
だから、いいんです。
知っているに限界はありません。
また、立場が変わればものごとの見え方の角度が変わり、新たな面を知ることができます。合氣道が各分野に活かされるのは、各分野の一流の方が知っていたことに深みを与え得るからです。
さて、話をはじめに戻しますが、昨今は知るということが浅くなってきたように感じていると言いました。
これはやはり、表面だけを知れるということが増えたからでしょう。これは、「調べて終わり」なのだということに氣づがなければなりません。
もし、家族、友人、仕事仲間な対して思うところがあれば、2つのことを考えることをお勧めします。
ひとつは、その人の知るということがどの段階で推移しやすいのか、見極めることです。
次に、自分が相手に伝えたいことをどれほど知っているかを見直すことです。
知ることの楽しみを知るのは何歳からでも遅くありません。また、楽しみを伝えることも、その氣になりさえすれば誰にでもできます。
私は合氣道の指導をする立場ですから、合氣道を通して知ることの楽しさに氣づいていただけるよう私自身知ることへの意欲を持ち続けたいと思っています。

「知っている」か「知らない」に分ける事ができます。
しかしながら、厳密には「知っている」にはグラデーションがあります。
言葉を知っている。
意味を知っている。
体験し、知っている。
日常的に知っている。
こうあげていくとキリがありませんが、おそらく、言われてみればその通りだと誰もが感じていただけるのではないでしょうか?
昨今のインターネットや電子機器の普及は、人々の「知っている」をより広範囲にしています。
しかしながら、一方では「知っている」レベルが大変浅くなる傾向もあるように感じます。
調べればそれが何なのか、わかる。
いえ、わかった氣になるのです。
知る、或いはわかるとはそんな容易いものではありません。
例えば、ひらがなの「あ」は共通認識として「あ」ですが、その一文字ができた過程や歴史を私は知りません。
こんな一文字についても深みを持っているのです。
私は合氣道に携わっていますので、その中での例えをあげさせていただきます。
当然、稽古の指導時は、私の「知っていること」を伝えています。
しかし、これもまた当然ながら、私の知っている深さと広さの中でしか伝えることは不可能です。
「知ったように話す」ことは、一生懸命ハリボテを建てることで、自分の指導者としての役割を果てしている氣分に浸っているだけです。自分にも相手にも何の役にも立たないと思っています。
なので、稽古の際、わからないことは言いませんし、お答え出来ない事もあります。
伝えたいにも関わらず、伝え方がわからないならば「自分がそれを知らないことを知る瞬間だ」と捉えています。
そういったものか浮上した際には、わかっていそうな人に聞くか、じっくりそれをテーマに稽古に取り組めばいいのだと思っています。
ひとつ、稽古で大変面白いのは、知っていたと思っていた事が、子どもの思わぬひと言などであっという間に中身のないハリボテだったことに氣づいたりすることですね。
そういう時は大抵、「すごいいい質問だね!それはわからないなぁ。また考えておくね。とってもいい問題をくれてありがとう」という感じで子どもににお礼を言うなんてことはよくある話です。
つまり私は、自分の生業としようとする合氣道であっても、知っていると思っていることはまだまだ知らなかったりするのです。
そう思うといくらやっても終わりがありませんね。
だから、いいんです。
知っているに限界はありません。
また、立場が変わればものごとの見え方の角度が変わり、新たな面を知ることができます。合氣道が各分野に活かされるのは、各分野の一流の方が知っていたことに深みを与え得るからです。
さて、話をはじめに戻しますが、昨今は知るということが浅くなってきたように感じていると言いました。
これはやはり、表面だけを知れるということが増えたからでしょう。これは、「調べて終わり」なのだということに氣づがなければなりません。
もし、家族、友人、仕事仲間な対して思うところがあれば、2つのことを考えることをお勧めします。
ひとつは、その人の知るということがどの段階で推移しやすいのか、見極めることです。
次に、自分が相手に伝えたいことをどれほど知っているかを見直すことです。
知ることの楽しみを知るのは何歳からでも遅くありません。また、楽しみを伝えることも、その氣になりさえすれば誰にでもできます。
私は合氣道の指導をする立場ですから、合氣道を通して知ることの楽しさに氣づいていただけるよう私自身知ることへの意欲を持ち続けたいと思っています。

※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。